ありんこ’s diary

思いの丈をつらつらと

2022年2月13日 目

2月になってしまいました。

最近、時間が経つのが早すぎて、色々なものから自分だけが取り残されているのではないかと不安になります。

 

感染者が増えてきていて、外出を自粛せざるを得ませんし、外出するにもご時世柄人目を気にしまいます。

「あのね、この間どこどこに行ったの!」なんて安易に話せなくなったし、マスク外してなんて、まず出歩けないですね。マスク反対派でもなんでもないですが、郷にいれば郷に従え。感染を防ぐために有効な手段とみんなが言うからつけています。The日本人的な考え方だなと思います。

 

やってみたいことがあっても、行動がままならず、なんの結果も生まない今、ただただ焦燥感に駆られております。どうしましょう。

 

2月は月の中で1番日数が少ないですよね。

2月は私の誕生日でもあるので、誕生日までワクワクして、当日を迎えて余韻に浸っていると一瞬で3月に突入しているイメージです。

 

最近は色々な方法で情報を集めることができます。毎日たくさんの情報を取捨選択して生活していくわけですが、本当に必要な情報を取ることができているのか。そもそも何を知っていれば必要な情報を取れていると言えるのか。情報を取るだけでいいのか?アップデートされていく情報は本当に正しいのか、どうやって判断するか。わからないこと、頭を使って考えなければいけないことがたくさんでてきます。

 

しかし私たちは、1人1人の手の中に、それはもう大変優秀な第2の頭脳とも言える電子機器を手にしてしまいました。

人類がかつて大自然の中で生きていた時代、生きていくために知らない、わからないことは命に関わる恐怖であるはずでした。

話が大きくなってしまいましたが、いつの間にかろくに考えずとも、世界のどこかにいる誰かの手によって綴られた情報を検索できるようになり、検証したり、検討、考察する機会が減ってきている気がします。少なくとも私は影響受けまくりです。

検索して1秒経たずに、世の多数派の意見が検索エンジンの1番上に表示されるので、その意見を正と捉えてしまいがちです。

どこの誰が書いた情報かもわからないのに、そう信じている、思い込んでいる人が多いと疑わずに受け入れてしまうのです。

検索結果=答えではないかもしれませんが、多くの場面で自己決定を下す判断材料になります。知識として様々な情報が入ってきやすくなったけど、インプットするだけで考えることに時間を使えていない気がします。

 

例えば抽象的で漠然とした疑問に対して、先程私が感じた焦燥感やワクワク感はどこからやってくるのか。

 

小学生の時にやった道徳の授業で「こころ」はどこにあるのか、与えられた限られた時間の中で目一杯真剣に考えました。

一応授業は、割と真面目に受けるタイプでした。

永遠に考えられる課題のため、明確な答えを見出すことはできませんが、答えのない問いに仮説を立てて考察する、あの時間って贅沢だったんだなと思います。

 

ブログも、書きながら感情の整理をしたりして、それなりに文章を整えるように考えています。

なかなか上手くいきませんが、時間をかけてこんがらかった頭の中を整理するんです。

たまに吐き出して、書き終えた時にちょっとほっとする。自分の想いを文にして自分に伝える、理解する。

 

そう考えると先程の「こころ」の問いの答えは身体の中のどこかにあるとしか言いようがないですね。その前に「こころ」ってそもそも何?って感じですけど、こころがどこにあるか認識しようとしても実態を掴めない。こんな抽象的なものを他人と共有して、名前をつけた先人達は天才です。

視覚から得られる情報は約8割と言われるけど、もちろんそれだけじゃないですよね。見に行った舞台に感動することもあるし、風の噂で聞いた陰口に悲観的になることもある。とてつもなく美味しそうな料理を前にすると幸福感が味わえたり、手を切ったり怪我をすると感傷的になる。あくまで私の場合ですが、身体全体にこころがあるが正解な気がしてきました。

 

SNSなんてどんな人が見ているのか、興味・関心を持ってくれてるのか、はたまた監視されているのか、簡単には特定ができません。

他人によるとは思いますが、他人の目なんて気にしてたら好き勝手なことは書けないし、ましてやチームメイトも読んでると知った日には、もう下手なことは書けないですね。

 

あな、わびしや。